特別展 京都国立博物館開館120周年記念

 海北友松展

絵師海北友松の全貌を示す史上最大の展覧会

フリーキユレイター 藤補正行


1.海北友松の全貌を示す構成

 京都国立博物館において開館l20周年を記念する特別展「海北友松」が開催されている。この展覧会は天文二年(1533)に湖北浅井氏の武将海北善右衛門尉綱親の三男(一説に五男)として生まれ、狩野派に学び後狩野派を離れて自立し海北派を立ち上げ、桃山期の四大臣匠の一人に教えられた絵師海北友松の全貌を示す展覧会である。

 本展は、「絵師・友松のはじまり・狩野派に学ぶ」「交流の軌跡・前半生の謎に迫る」「飛躍の第一歩・建仁寺の塔頭に描く」「友松の晴れ舞台・建仁寺大方丈障壁画、」「友松人気の高まり・変わりゆく画風」「八条宮智仁親王との出会い・大和絵金壁屏風を描く」「横益する個性・秒心寺の金碧屏風」「画龍の名手・友松、海を渡った名声」「墨技を楽しむ・景晩年期の押絵制作」「豊かな詩晴・皮松画の到達意」という全十章によって構成され、彼の主要な作品のみならず彼が遊び心を発揮したとされる個性的な作品まで網羅し、彼の人生に沿ってまとめられている。

 このような展覧会が企画された意味は、日本の絵画史上最も華やかな時代とされる桃山期の全貌について、これまでは江戸期に画壇を独占した狩野派の絵師を中心に語られることが多かった。しかし近年、桃山狩野派の頭領狩野永徳に対抗し続けた長谷川等伯や毛利家に仕えて長州を中心に活躍し、画聖雪舟のアトリエであった「雲谷庵」を継承し雪舟三代の後継を標傍した雲谷等顔など桃山期の四大巨匠と称される絵師たちに対する関心が高まってきたことがあげられる。中でもこの海北友松に関しては、狩野派の亜流といった見方から独自性が指摘されるようになり、海外の美術館や識者においても関心が生まれ、その武人的な生き方とも相まって注目されるに至っている。

 特に海北友松の出自である湖北の大名浅井氏の周辺からは、豊臣秀吉の愛妾淀君をはじめ、その妹で徳川二代将軍秀忠の正妻お江与の方、江戸期の造園家であり茶人としても知られた大名小堀遠州、主家滅亡の後秀吉に仕え狩野永徳に師事し後に京に残って豊臣系の大名に重用された絵師狩野山楽(京狩野派の祖)など多くの文化人が現れており、江戸初期の文化の揺籃の地ともいえる様相を呈していた。そのような環境で友松は生まれ育ったのである。


2.海北友松という絵師

 海北友松は前述のような境遇で天文二年(1533)に生まれたが、武家の三男(あるいは五男)という立場で生家を継承する立場にはなかった。天文四年(1535)友松三歳の時主家浅井家が多賀城を攻略した際に、浅井家の重臣であった父海北善右衛門綱親が戦死してしまった。友松はこれを機に京の名刹東福寺に喝食として入山したとされている。この禅僧としての修業中に寺にあった水墨画などに出会い、また当時狩野派の総帥であった狩野元信あるいはその孫の永徳に師事したとも伝えられ、これが友松の絵師としてのスタートであったと考えられる。この狩野派時代の作品に「山水図屏風」(2)があるが、この作品にはのちの友松様式は全く見られず、岩山も松もすべてが狩野派に彩られている。しかしこの時代の最後頃の作とみられる「西王母・東王父図屏風」(5、浄信寺)には少し大らかな空間構成が感じられ、友松らしさへの転換が始まったかのような感を受ける。


山水図屏風(左隻)

 友松の二十代から四十代に至る青年期の事象はあまり明らかではない。永禄二年(1559)には師匠の狩野元信が死去した。当時友松は二十七歳。その後天正元年、友松四十一歳の時に主家浅井家が織田信長によって滅ぼされ、この時海北家の後継者であった兄が戦死し、友松は帰るべき家をなくしてしまった。

 その後四十代から五十代にかけて友松は多くの人々と交わったようだ。これらの交流が、友松の後半生において、画業やその生活の様々な面において大きな役割を果たしたであろう事は想像に難くない。特に天正十年(1582)に信長を本能寺に破った明智光秀の家臣斎藤利三との交流は深く、彼が秀吉軍にとらえられ、六条河原で斬首され粟田口にその首がさらされた際には、友人の東陽坊長盛とともにその遺骸を奪い、真如堂に埋葬したとの武勇伝も残されている。

 天正十八年(l590)九月、これも友松が師事したと伝えられる狩野派の総帥永徳が四十八歳の若さで死去した。この時友松は五十八歳。この時を機に友松は狩野派を離れ独自の道を歩み始める。絵師友松独立の時であった。


3.海北友松の画業

 海北友松の絵師としての独自の歩みが始まったのは師ともされる狩野永徳没後の天正十八年のことであった。この時友松はすでに人生の晩年期に入った五十八歳であり、絵師や職人の多くが独り立ちするとされる二十五歳からおよそ三十年も遅れた自立の時であった。当時の人生は五十年が一般的と考えられており、その意味においては友松にとって文字通り第二の人生の始まりを迎えたことになるのである。この大器晩成の見本のような友松の生き方こそが桃山期四大巨匠の中で最も特徴的なものであり、五十歳を待たずに没した永徳の人生と明らかに対比されるものであった。

 ここから絵師友松の独自の活躍が始まる。その舞台は、友松の後援者であった大名細川幽斎の甥で入手してから示寂するまでの約十七年の間に十九回も住持を務めたという英甫永雄との交友があったとされる洛東の名刹建仁寺で、この寺の本坊をはじめ大中院・霊洞院・禅居庵などの塔頭に作品が遣り、このため建仁寺は「友松寺」の異称もつけられているほどである。

 この建仁寺障屏画群の先駆を成す作品が、大中院、霊洞院・禅居庵の襖絵や屏風である。まず大中院には「山水図襖」があり、これは狩野派弟子時代の「西王母・東王父図」にも似たおおらかな空間があり、狩野派風な画面構成を残しながらも友松らしい広がりと大胆さが垣間見られる。

  
西王母・東王父図
滋賀 浄信寺

 一方霊洞院の「花鳥図」や「庸人物図」には江戸期の狩野派絵師が多く描いた花卉類のクローズアップや大柄な人物の先駆的な表現が見られ、又「琴棋書画図屏風」(重要文化財)には、のちに友松が得意とした梁楷風な「袋人物」表現の初期的なものが見られ、次第に友松の独自性が開花しつつあるように思われる。建仁寺塔頓作品の最終段階では禅居庵の「松竹梅図襖」(重要文化財)が生み出される。この図は四枚に大きな松の上方を描き、そこに羽を休める番の烏がいる。ほかの四枚には左右に大きく枝を広げる梅が描かれその幹の脇から若い竹が勢いよく伸びている。こちらに鳥は描かれない。このような構成では、否が応でも二羽の烏が目立ってくる。この松と烏の関係は、狩野永徳の花鳥図などには見られないもので、いわば友松スタイルが出来上がった姿を見せているといっても過言ではないだろう。

 この塔頭寺院の連作の後、友松は建仁寺大方丈の再建に伴ってその室内に彼の代表作とも呼べる多くの作品を残した。この建仁寺大方丈の再建は慶長四年(1599)友松六十七歳のことで、歴史の大きな節目となる「関ケ原の戦い」(慶長五年・1600)の前年に当たる。大方丈の襖絵は現在ほとんど大幅の掛物となっているが、そのうち「雲竜図」「花鳥図」「竹林七賢図」「山水図」「琴棋書画図」(いずれも重要文化財)が本展に展示されている。「雲竜図」は第八章にもまとめられている通り、友松の得意とする画題であったらしく数多くの遺品が残されている。その代表作がこの大方丈の図で、襖八面に大きな雲と渦を表しながら空中を舞う二頭の龍の姿が描かれる。その光景はまさに天空の王者と呼ぶべき姿で、人知を超えた力の表現であろう。「花鳥図」は壁貼付け二面と襖四面の六面からなり、巨木の松の根本に大きく描かれた孔雀の姿は、先に見た禅居庵の「松竹梅図」に描かれた烏に相当する。この花鳥図は、本来なら多くの彩色を使ってカラフルに描かれるのが一般的であるが、友松はあえて水墨画で描いており、クローズアップ場面ながら重厚感のある絵になっている。「竹林七賢図」は中央近くに太い松を描き、その両脇に七賢人を配する。その衣服の表現にも「袋人物」系の表現が使われており友松得意の人物表現が完成しているのである。「山水図」は溌墨系の省筆的表現で、広く空間を空けて描き、一方「琴棋書画図」は左方に繊密な表現で人物を中心に松や岩を配した絵の主要部分が描かれ、右方には省筆で水面が広がる先の遠景が描かれる。このように建仁寺大方丈の作品群は、友松の水墨技法のすべてを使ったもので、友松水墨画の独自表現の結晶といえるものである。こののちは友松の多彩な画技が開花していくことになる。


雲竜図
重要文化財
京都・建仁寺


竹林七賢図
重要文化財
京都・建仁寺

 建仁寺大方丈での作画以降、友松の名声は各方面に広がり減筆体で描かれ、多くの僧侶によって賛が書かれた縦版の「瀟湘八景図」(群馬県立近代美術館ほか)や八条宮智仁親王の求めに応じた「山水図屏風」(六曲一隻・東京国立博物館)山陰鹿野城主亀井滋矩に贈った「飲中八仙図屏風」(重要文化財・六曲一隻・京都国立博物館)などのほか、減筆体の傑作「楼閣山水図屏風」(重要文化財・六曲一双・MOA美術館)や彩色で女性をテーマに描かれた「婦女琴棋書画図屏風」(重要文化財・六曲一双・東京国立博物館)などの作品。さらに画面全体に薄くカスミが掛かったような表現が印象的な「四季山水図屏風」(重要文化財・八曲一双・MOA美術館)などの多彩な作品が遺されている。


楼閣山水図屏風(右隻・部分)
重要文化財
MOA美術館

 これらの多彩な作品群に続き、友松は細川幽斎らに紹介されて八条宮智仁親王の御殿に出入りを許され、そこにこれまでとは違う大和絵のテーマによる作品群を描いた。そこには「浜松図屏風」(六曲一双・宮内庁三の丸尚蔵館)「網干図屏風」(六曲一双・宮内庁三の丸尚蔵館)の二作品をはじめ「扇面貼付屏風」(六曲一双・出光美術館)などの作品が遺されている。


干網図屏風
宮内庁三の丸尚蔵館

 洛西の名刹妙心寺においてもこの大和絵風な筆法と彩色の作品は遺されており、「花卉図屏風」(重要文化財・六曲一双)「寒山拾得、三酸図屏風」(重要文化財・六曲一双)「琴棋書画図屏風」(重要文化財・六曲一双)などがあるのである。


4.海北友松作品の魅カと到達点

 こうした多彩な作品を描き続けた海北友松は、当時としては長命の七十歳代の半ばになっていた。慶長二十年(1615)に八十三歳で没したと推定される友松にとって、この最後の十年間は、かなり自由に作画を楽しめた期間だったのではないだろうか。

 この時期には、建仁寺大方丈での仕事が評価され、各所から注文があった「雲竜図」の作品が数多く遺されている(北野天満宮・霊洞院・勧修寺など)。また押絵張りの屏風に仕立てられた小品も多く、「人物・花鳥図押絵貼屏風」や「禅宗祖師・散聖図押絵貼屏風」のほか「白鷺図」(根津美術館)「鶴図」(根津美術館)などがあり、鉄山宗鈍が賛を書いた「禅宗祖師・散聖図押絵貼屏風」(静岡県立美術館)には最晩年の慶長十八年(16T3)の監記があり、友松の晩年に描いた自由な画蹟が示されている。


白鷺図
根津美術館

 本展では、最後に友松画の到達点として、海外流出後初めて里帰りした「月下渓流図屏風」(六曲一双・ネルソン・アトキンズ美術館)を上げている。この作品は全体に減筆体風な空間が広がり、水墨調の樹木とやまと絵風の渓流表現が見事にマッチしている作品である。こうした和漢融合の表現は、桃山期の各流派が目指した目標であったと思われるが、それを完壁な形で表現しえた絵師はこの海北友松を置いてほかにはいなかった。


月下渓流図
ネルソン・アtキンズ美術館

 但しこの「月下渓流図」を到達点として位置付ける考え方には筆者は賛成しかねる。それは、この最晩年の時期以前に、すでに友松画の到達点は示されていたと考えるからである。友松は、八条宮智仁親王邸に装飾において、彼独自のやまと絵作品を残した。この時点ですでに友松はやまと絵と漢画(水墨画)の融合を果しえていたのではないだろうか。つまり「月下渓流図」はすでに完成していた友松的和漢融合の完成後の当然の結果として見ることができるのである。